LSD!?


 先の「ブルースバンド」に遅れること約1年、私は別のロックバンドを結成しました。

 まずは、ギタリストのK原くんと知り合うことになるのですが、彼を紹介してくれたのは、他ならぬ前出のK添さんだったのです。

志に、おまえと同じくらい背がデカいギタリストが居るけど…

 K添さんは当時、自分が在学していたT原高校に居るよりも、F志高校に居る方が「長い」と言われるほど、特異?な高校生活を送っていた方で、下手なF志生よりF志を熟知していました。しかも、こと音楽を演っている人間を探し当てる彼の「嗅覚」は、常人のソレとは比べ物にならないほど優れていましたから、難なく探し当てたK原くんを

会ってみる? 案外、気が合うかもな?
と紹介してくれたのでした。ただし

そのかわり、一筋縄じゃ行かないだろうけど…
…そう付け加える事も忘れていませんでした。

 K原くんが当時下宿していたF志高校近くの下宿先まで2人して出向き、その場で紹介されたのですが、そこは、その後私が住むことになるアパート?とは「雲泥の差」もある…ほど清潔で、大勢の下宿生たちが暮らす明るい雰囲気の下宿でした。
 彼は、その屋外に建つ6畳間の別棟にいました。

 初対面でありながら、K原くんとは、何かこう…ウマが合った…とでも言いましょうか、音楽話に花が咲き、ずいぶんと長居してしまった覚えがあります。ただ、K原くんは当初、こっそりギターは弾いていたものの、バンド結成については、それほど執着がありませんでした。
 …と言うのも、彼は開業医の家庭に生まれ、その医師だった父親に早く死に別れてしまい、その後、母親一人に育てられた境遇の持ち主だったからで、彼には「F志高校卒業後は医大に進学し、亡き父の跡を継いで、医院の後継者になる」と云うレールが、高校に入学する遥か以前から引かれていたのです。
 ここでK添さんが言った「一筋縄じゃ行かない」の意味が、ようやく理解できたのでした。

 K添さんに言われた通り、そんなK原くんを、一時期にせよ「悪い音楽の道」に誘うのは、なかなか困難を極めました。当時、音楽はクラシックとかでない限り、世間一般からは相手にもされず、ましてや、ロックなど「不良が演る音楽」と決めつけられていた時代ですから。
 しかも、女手一つで男の子2人を育てて来た彼のお母様は、彼にとって最も大切であると同時に、最も恐れる存在でもあり、それゆえ「ロックバンドにうつつを抜かす」事など…全く考えていない事も無かったのでしょうが…半ば諦めていたようです。

そんな彼の気持ちを変えるため、
いったい何度、K原くんのアパートに通ったことでしょう。
時には「素っ気なく」また「嫌な顔」もされながら。。
それでも、とうとう足繁く通った甲斐あって、
晴れて一緒にロックバンドを組む事になったのでした。

 それからというもの、互いの住処(すみか)を行き来しながら、新しいバンドを結成する為の準備に取りかかりました。まず、1学年下のベーシストN田くんをK原くんが見つけて来て、そこから芋蔓式に(笑)1学年下のメンバーを次々に引き込みました。

 N田くんは、K原くんと同じ医師の、こちらは一粒種?で、K原くんと同じレールが敷かれていたものの、自ら進んで「悪い道」に飛び込んで来たのでした。ところが彼はベーシストとは言っても、それまでにベースを殆ど弾いたことが無い…まったくの「初心者」だったのです。
 こういったケースは、高校生バンドに良く有りがちで、私もK原くんも、言ってみれば初心者に少々毛が生えた程度でしたから、まったく気にはしていませんでしたが、勿論、一緒に演ると決まったからには毎晩猛特訓が続いたことは言うまでもありません。
 今でもN田くんからは「先輩に悪の道に引き込まれた」などと、半ば冗談まじりに言われますが、引き込まれた…のではなく、勝手に飛び込んで来たのです。ハイ(笑)。

 ヴォーカルは、ノーパンでジーンズを穿く事に執着していたT力くん。背が高いにもかかわらず、やたらと高い音域まで歌うことが出来る、特異な声帯の持ち主でした。
 キーボードは、確かそれまで他のバンドでベースを弾いていたA藤くんを「昔エレクトーンを習っていた事がある」と言うだけで、無理矢理引き込ました。しかし練習を開始すると、やはり鍵盤楽器をバンドで演奏するのは「じつに難しい」と身につまされてしまう事に…(苦笑)。

 とにかく、これでギターのK原くんとベースのN田くん、ヴォーカルのT力くんとキーボードのA藤くん、そして私…の5人組ロックバンドが結成されたのでした。

 バンド名は、高校2年生にして既に英検1級を手中にしていたヴォーカルT力くんの案で「Lovely Smells of Drags」と呆気なく命名され、略してLSDと呼ぶことになりました。
 奇しくも、あの有名な麻薬名と同じ名前になってしまった(してしまった)のですが、若かりし私たちは、そんな事「お構い無く」気軽にバンド名を呼び合っていました。
 ※勿論、当時もその麻薬名は知っていましたが、残念ながら未だ且つて試した事はありません(笑)。

 さて、そのLSDでの練習が、さっそく開始されました。当時はスタジオなど在ろう筈も無く、F志のある教室に機材を毎回運び込んでは行っていました。ところが、高校生の私たちが、どうやって楽器を毎回運んでいたか…は、全く覚えていません。確かに、私も自分のドラムセットを毎回組んでいた事は覚えているのですが、運ぶ手段…を全く覚えていないのです。勿論、何処かに置きっ放しにしていた記憶は全くありませんし。。。じつに不思議です。

 それはともかく、当時私が使っていたドラムセットは、既に、あの「バレンシア」から買い替えた2代目のセットになっていました。構成は、バスドラムが22インチに16インチのフロアタム、それと13インチのタム…の所謂3点セットで、そこに無理して買った20インチの「ジルジャン」トップシンバルと、これまたジルジャンのハイハット15インチがおごられ、クラッシュはまだ無い状態でした。
 このセットは、その後買い足す物はあったものの、基本的に約30年間に亘って使用することになります。

話をバンドの方に戻しましょう。

▲▼F志高「蜻蛉祭」での演奏の模様。下の写真は上部が剥がれてしまいました。

 このLSDも高校生バンド特有の学園祭向けバンドでした。ありがたい事に、当時バンドで学園祭に出演する事が、公認…と云う訳にはいきませんが、何となく「黙認」されていたので、F志高校の学園祭「蜻蛉祭」と我がMヶ丘高校の学園祭「双蝶祭」の両方に出演が叶いました。
 蜻蛉祭では、F志高東南隅の野外で約40分ほどの演奏をしましたが、観客はまばらで、その所為か伸び伸び演奏が出来たようです
(右の2枚の写真参考)
 また双蝶祭では、超満員?となった教室で同じ40分ほどの演奏を行いました。こちらは、ヴォーカルのT力くんの知り合いが「松本レコーディングセンター」に居たとかで、何とライヴレコーディングが行われてしまいました。
 その所為だったのか、満員の観客も相まって、演奏はどことなくギコチなく、間違いも多かったような(苦笑)。

 演奏した曲はどちらの学園祭も同じ曲目で、ユーライアヒープの「July Morning」やレッドツェッペリンの「Since I've Been Loving You」等々、当時人気のあったロックバンドの曲ばかりでした。
 ※ところで、このユーライアヒープ、まだ活動続けていたんですね。

 そんなライヴを収録したレコードが完成したのは…かなり待った…覚えがありますから、ライヴ後2〜3ヶ月経ってからの事だったと思います。
 アルミ盤にプラスチックの皮膜を被せ、そこに1枚1枚「ほぼ原盤に近い」制作行程で作られたSP盤サイズのそれは、持ってみるとズッシリ重く、それ故(でもないのでしょうが)1枚5,000円と当時の高校生にとって超高価な記念レコードでした。

 ところが、左写真を見てもお判りになると思いますが、超高価なわりには、ジャケットが結婚記念さながらのケバケバしい金色に「記念樹」の黒文字…と、到底ジャケットと呼べるような代物ではありませんでした。
 しかも極めつけは、レコードの回転数が33+1/3回転ではなく、単に33回転だった事です。おかげで、普通のターンテーブルに乗せて聴いてみると、ただでさえ高音域のT力くんの声が、キンキン声に聞こえてしまう有様でした。
 そんなレコードを、最低ロットの10枚も売り捌かなければならない訳ですから、ずいぶんと奔走しました。結局、当時彼女だった今の妻と友人に無理矢理売り付けて事無きを得たのですが、そのおかげで、今私の手元には2枚のこの「記念樹」があったりします(苦笑)。

(2005.12/21)


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