何処からか爆音が!


 こら〜!

突然隣のオヤヂが怒鳴り込んできました。
 当時、松本の北部「桐」に住んでいた私の家は、3軒続きの長屋みたいな借家でして、薄い壁越しにテレビの音や大きな話し声なら聞こえてしまうような家でした。

「こんな夜遅くに何やってんだ!」

オヤヂの怒鳴り声でうたた寝から目覚め、玄関の戸をノロノロ開けると

「ん? お前んトコぢゃなかったのか〜?」

私の寝ぼけ顔と、電気も点けないでいた家の中を交互に見やって、バツが悪そうに帰って行きました。

『な・何だったんだ〜?』

怒鳴り声で起こされた意味も解らず、隣のオヤヂの後ろ姿を呆然と追っていると、だんだん目覚めて来た私の耳に、遠くからの大爆音が聞こえてきました。

ん?!

それはまさに「ロックの爆音」だったのです。
 しかも、下手なアマチュアの音ではなく、上手い演奏だ…と言うことは寝覚めの私にもハッキリと解りました。
「こりゃ、もしかしたら!」
 気が付くと、家の鍵を掛けるのも忘れて、着の身着のままでチャリのペダルを力任せに踏んでいました。

 この日は信州大学の学園祭の日。けれども、当時高校(1年?)生だった私にとって、大学の学園祭など全く興味があろう筈がありません。学食でB定食を食べるようになるのも、後の2年生以降でしたので、キャンパスにも殆ど入ったことが無く、この爆音の正体が「何」なのかは、その場に辿り着くまで全く解りませんでした。

 爆音元はまさに信大の方角。

 そんな見知らぬ…しかも暗い学内だと言うのに、演奏が行われていた場所に辿り着くには、その音を頼りにすれば「じつに容易い」ことでした。私が到着したのは、たぶん夜の8時頃で、ちょうど「あんぜんバンド」の演奏が佳境にさしかかった時でした。

あんぜんバンド」…それは確か浦和を拠点にして演っていた3ピースのヘヴィーなロックバンドで、その時演奏していた曲等については、まったく覚えておりません。A^^;)汗
 ただ、ドラムが2バス
(バスドラムを2つ使うこと)だったと記憶しています。私が初めて見た生の2バスで、叩き方もじつにパワフルなドラミングでした。
※ところが…どうやら「あんぜんバンド」が2バスだった…という記憶は間違っていたようです。
 「安全バンド」と検索してみたら、何と!公式ウェブサイトがありました!
 しかもAnzen Band内のHISTORYには信大の文字も。そっか、この学園祭は1971年の秋だったんだ〜。

 彼等が演奏していた会場は、今なら講堂とかが当たり前なのですが、その時は何と、狭い一般の教室(のような場所)でした。しかも、椅子も無く、訪れた観客は皆、立ったまま観ていましたっけ。まぁ、今で言うところの「オールスタンディング」ですね、コレ。
 その人垣をかき分けて最前列まで出てみると

「おっ、来たね〜!」

 それまで人垣に隠れて見えなかったK藤くんから声をかけられました。彼は、このイヴェンとがある事を事前に知っていたにもかかわらず、私には「きっと音が聞こえるだろうから…」と知らせなかったようです。神出鬼没でチョッピリ意地悪な友人でした(苦笑)。

あんぜんバンド」の演奏が終わり、しばしの休憩後に出演したのが、あの竹田和夫率いる「ブルースクリエーション」でした。メンバーは3人だったのか4人だったのか良く覚えていないのですが、パワフルだと思っていた「安全バンド」の演奏が薄れてしまうほど、更にパワフルな演奏でした。もちろん、竹田和夫のギターテクは「スゴい!」のひと言。
 曲目は、これまた全く覚えていません(苦笑)が、曲調はその頃ブルースと呼ばれていたブルースロックで、演奏後しばらくの間耳鳴りがするほどの大音量だった事だけは覚えています。

 当時、ブルースとして演奏されていた曲の多くは、このブルースロックの類いで、アメリカの黒人社会の苦悩を歌った「それ」とは全く違う、ブルースのコード進行(3コード)を基本としたロックでした。それは、当時の欧米の白人たちの間でモテ囃されて演奏されていた「ブルース」とも、ほぼ同じでしたね。
 クラプトンもピーターグリーンも、ミックテイラーもオールマンも、はたまたサンタナも「ブルースロック」に一時はご執心で、結局、黒人のブルースは演奏できない…と知るや、自らのサウンド作りに向かって行ったわけです。
 ありゃりゃ、チョッと生意気な事書いちゃいましたね。けれど、この時期はそれが当たり前で、私も「ブルースロック」には随分とハマってしまったうちの一人です。
 そう、この後私は、このコーナーに再三にわたって登場しているK藤くんとブルースバンドなるものを結成してしまうのですから。。。

(2005.11/16)


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