疲れきった楽隊?!


 O友さんとの3ピースバンドが空中分解してからと言うもの、私とK藤くんとの、長い長い「ベーシスト探し」が始まりました。

 そこで、まず候補にあがったのは「ギター小僧」のページに、ほんのチョッピリ登場したT沢くんでした。
 このT沢くんとは、中学からの悪ガキ仲間でして、そんな仲間の誘いに「まんざら」でもなかったようで、一つ返事で引き受けてくれました。
 それからと言うもの、彼の家に2人して押しかけては、ベースを教えて弾かせる日々…が続いた事は言うまでもありません。何しろ、T沢くんはそれまで、全くベースを弾いたことが無かったのですから。

 しかし、気の合うベーシストなど、そう簡単に見つかる訳がありません。一時は、T沢くんも「その気」になり、練習に励んでいたのですが、もともとあまり音楽に興味がある訳ではなく、ましてや演奏する事など考えた事もなかった彼にとって、その練習が日に日に苦痛になって来たのでしょう。結局、ある日突然ベースを投げ売って、ドデカいバイク(CB750ってヤツです)を買い込んでしまいました。
 あっと、誤解しないで下さい。ベースを売った金でバイクを買った訳じゃないですから。

 次に候補としてあがったのは、O勝くんでした。

 O勝くんはM工に通う同年生で、後々「M工にO勝あり!」と言われるようになるほど、後にギタリストとして名を馳せた人物です。もちろん、この頃もギターを弾いていたのですが、どうやって納得させた(誤摩化した?)のか、K藤くんが連れて来てしまいました。こういったとき、何故かK藤くんは不思議な力を発揮するのでした(笑)。
 ところが案の定、練習をするにしても「どちらがギターを弾くか?」で、毎度のように口論になり、その度に「じゃんけん」で決めていましたっけ
(O友さんの時と何ら変わっていません…(苦笑))
 練習していた曲は、クリームとかジョンメイオールとかの曲でしたね。そう、やっぱり3コードの「ブルースロック」が主体でした。

 当時、練習していた場所は、先のT沢くんから紹介された、彼のバイク仲間の家の土蔵でした。場所は確か出川だったか…にありましたが、もう今では道も家並みも変わってしまっていて、いったい何処だったのか全く見当もつきません。

 松本は今でこそ「蔵の街」と宣っていますが、その頃を知る者にとっては「何だかアホらしぃ」と思う事でしょう。中町のような通りが昔は何処にでもありましたし、今の井上百貨店周辺の広大な土地は土蔵で埋め尽くされていた…と言っても過言ではありません。大仰に言えば「蔵は何処の家にも」あったほどでした。

 そんな松本での練習場所…と言えば、真っ先に思い浮かぶのが「土蔵」だったのです。案外、その頃松本でバンドを組んでいた方々は、土蔵を練習場所として使っていたのではないでしょうか?
 夏涼しくて冬暖かい「土蔵」は、壁が分厚いので音が洩れにくく、うるさいバンドの練習には打ってつけでしたから。

 さて、そんな土蔵の2階で、休みの度に練習していた我々にも、とうとう終末が訪れてしまいました。結局、K藤くんは、ベーシストとして連れて来たO勝くんに、殆どギタリストの座を奪われてしまったので、折り合いが悪くなったから…なのですが、こんな事、初めから解っていたのに、よく半年近くも保ったものだと今更ながら感心します。

 この土蔵に、ドラムを運び込んだ時のことは殆ど覚えていませんが、運び出した時のことは克明に覚えています。きっと、運び込んだ時は、バンド結成で浮かれていたから忘れてしまい、解散時は辛かったから覚えている…とお思いでしょ?

 じつは…。

 機材の運び出しは、その頃最もポピュラーな輸送手段である…あの「リヤカー」で行いました。それも、出川から桐の自宅までですから、距離にして約6〜7kmはあったでしょう。その距離を延々リヤカーを人力で引いて運ぶんですから、そりゃ〜堪ったモンじゃありません。
 途中何回も休憩したのは勿論ですが、何と言っても、大名町のあの通りをリヤカーを引いて通るのは、交通量の少なかった当時でも

無茶苦茶恥ずかしい!

事だったのです。
一気に走り抜けてしまおう!
手伝ってくれた皆もそう思っていました。ところが、これが却っていけなかったんですね。

 現在の松本郵便局の本局を通り過ぎた辺り…まで大急ぎで来た私たちは、とうとう疲労困憊してその場で倒れ込んでしまいました。

いちばん止まりたくなかった場所で。。。

 ちょうど近くを通りかかったお婆さんが、息を整えていた私たちに声を掛けてきました。

兄さんたちぁ〜何処の楽隊のもんだい?

疲れていた私たちは何故か、声を揃えて、こう答えていました。

いいえ、楽隊じゃなくて楽団です!

(2005.11/17)


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