大熊城跡

 長野県諏訪市湖南大熊

 雨上がりの新緑。これほど緑が鮮やかに写ることもないでしょう。…と、そんな訳で、大熊城跡にやって来ました。

 もともと千野氏は諏訪上社大祝敦貞の子敦真(貞方の弟)の子光親を祖とし、古来から大熊の地を治めていたようです。

 文明12年(1480)2月、諏訪上下社の争いが起こると、千野氏は矢崎肥後守や小坂氏らと下社大祝金刺興春を討ち、二日二晩大熊城に晒した…とあります。

 同15年、上社の内訌により惣領家政満一家が大祝継満に殺されると、千野氏は矢崎・福島・小沢・有賀・神長官らと共に挙兵し、継満の干沢城を落城させたようです。

土塁の石は後世のもの? 主郭土塁上に建つ石祠
主郭から四の郭 主郭脇から茅野方面。この下の削平地は郭?

 武田の諏訪侵攻が始まった天文11年(1542)、7月には高遠・武田の連合軍が大熊口に攻め寄せ、千野兄弟(千野伊豆入道・千野南明庵)奮戦も空しく落城。千野南明庵は討死したといいます。
 同年9月、諏訪惣領家乗っ取りを企む高遠氏が謀反を起しますが、その折、千野氏(千野伊豆入道)は高遠頼継の野心を憎み、矢崎・有賀・小坂・福島・神長官らと武田方に組し、安国寺門前において激戦の末、頼継を敗走させます。

 大熊城は、天文17年頃(1548頃:塩尻峠の戦い後か?)破却されたと案内板にはありますが、信玄没後の天正10年(1582)、徳川帰属を迫った家康に向けて諏訪頼忠が遣わした使者の一人千野丹波房清は二城の城主で1300石を領したと言われ、一城は有賀城であるとすると、もう一城はこの大熊城ではないでしょうか?
 主郭土塁上に後年(江戸中期)に建てられた石祠にも「大熊城主 千野丹波守房清霊祠」の刻があります。

六の郭から中央道を隔てて主郭方面を望む。 主郭西側の空堀は幅が約10mで深さは4m。
主郭先端部。道で削られてますが、なかなかのボリュームです。 千野氏の古城から茅野市を望む…って? 石祠に「後孫千野源五郎房儀建之 千野儀正再建」の刻が見える。
主郭の土塁部分。最高部で約3mほどでしょうか。 主郭から南面を望む。手前が四の郭、右中央が六の郭です。

案内板の解説文を掲載しておきましょう。
大熊城跡
 大熊城は千野氏居城と伝えられ、文献上では文明15年(1483)にその名がみられる。諏訪神社上社大祝(おおほうり)側に属する山城で、当時対立していた下社大祝金刺氏との攻防の場となった。天文11年(1542)武田信玄の侵攻によって落城し、天文17年頃破却された。
城は三日月形をした自然丘陵上に主郭を築き、周囲に6ヶ所の郭(曲輪)を配置したいわゆる連郭式城郭である。主郭の南端には長さ20mの土塁があり、その上には千野氏の名を刻んだ石祠が建っている。
 昭和48年に行なわれた発掘調査では堀・建物跡・土橋が発見され、築城の様子が明らかになった。また大熊城に隣接する城山遺跡・荒神山遺跡からは城主の居館跡とみられる建物跡も発見された。
大熊区・諏訪市教育委員会
 2月末に訪城した折、いくら暖冬とは言え、城跡にはもう福寿草が咲き始めていました。

 春には福寿草園として賑わうとか。
 現在城跡は、中央道の貫通によって郭の一部(五の郭)が消滅していますが、他の郭は耕作地となっているため比較的よく旧態をとどめていると言えるでしょう。

 昭和43年に中央道建設に伴う発掘調査が行なわれ、城跡からは堀・建物跡・土橋が発見されたようですが、発掘時の遺構は埋もれてしまったのか、私が訪城した折には郭の配置と空堀だけしか解らない状態でした。


07年2月28日追記

DATA

住  所: 長野県諏訪市湖南大熊
アクセス: 諏訪湖岸通りより県道16号線に入り約5km、名前のない信号機(片側点滅信号)を右折。道なりに進み、北方御社宮司社前を通過して直進。中央道に架かる橋手前が城跡です。
別  名: 千野城
区  分: 山城
築 城 者 : 千野氏?
築 城 年 :
主な城主: 千野氏
遺  構: 曲輪、土塁、空堀
城  域: 南北約70m×東西約100m
保存状態: ★☆ お勧め度:★☆
訪  城: 04年5月13日 / 07年2月27日

ホームプライベート歴史散歩城跡探訪信州の城跡>大熊城跡