花岡城跡

 長野県岡谷市湊花岡

 諏訪へ出掛けたついでの帰り際、花岡城跡に寄ってみました。以前に訪城した際、強烈な急坂に恐れおののくと同時に懲りた筈だったのですが、今回もまた、同じ坂を車で登城してしまったのでした。お〜怖っ!(苦笑)。

 花岡城は、天竜川が諏訪湖から流れ出す釜口水門の西南にある山上(標高811m県道からの比較高低差51m)にあり、伊那方面への抑えとして、かつては有賀氏の支族である花岡氏の居城跡であったと言われています。

 築城年代等の詳細は残されていませんが、同族有賀氏の有賀城が承久年間(1219〜22)の築城とされており、有賀四郎がこの花岡城にも居城していた史料があるようですので、ほぼ同時期に築城されたのではないかと考えられています。

主郭下の石積み(後世のもの?)。 主郭北東下の帯郭から岡谷市街を望む。
主郭より東側の郭を見下ろす(そのすぐ下が駐車場)。 主郭はそれほど広くありません。
城跡中最も広い二の郭 二の郭を取巻く土塁。高さは約1mほど。 二の郭から主郭南の5m土塁および諏訪湖を望む。 二の郭から北西側の段郭。

 花岡氏は有賀氏と共に同族の諏訪氏に属していましたが、諏訪氏が大祝頼満の時代から大祝家と惣領家とに分かれるに至り、花岡城は大祝諏訪氏の居城干沢城の支城として機能していたようです。

 天文11年(1542)6月諏訪惣領家頼重を討ち、同9月安国寺門前において高遠氏を敗った武田信玄は、この花岡城を武田信繁に500の兵を与えて守らせたと言われています。ただし、この件に関しては確実な史料が無いのが現状です。

 武田氏の支配が諏訪におよぶと、天文17年(1548)4月の小笠原長時の諏訪侵攻に呼応して同年7月、花岡氏も西方衆として武田支配に乱を起こしました。しかし、塩尻峠の戦いで小笠原方が大敗したため、花岡城もその時に廃城になったようです。

城跡北側に残る段郭 城域北西隅の寿命稲荷社から主郭方向。この辺りが虎口?
城跡北西の段郭から 本来の登城道?(右上は二の郭)
二の郭下の帯郭 主郭すぐ下の東側の郭
案内板の解説文を掲載しておきましょう。
史跡 花岡城址(指定 昭和42年3月6日)
 本丸跡、二の丸跡、その間に空堀があり、自然の要害を利用して構築され、五陵閣形式となっており、土塁があり、中世の城址を知る貴重な史跡である。戦国時代には伊那口のおさえであり、天文年間には武田氏の支配であったと伝えている。

昭和42年3月 岡谷市教育委員会

城跡南西部
 現在、城跡脇まで市街化が進んで入るものの、主郭・二の郭以下、急斜面には多くの曲輪跡が良く残り、また、岡谷市街や諏訪湖はもちろん、北は勝弦・塩尻峠、東は遠く八ヶ岳の峰や茅野方面まで望むことが出来、当時の城としての重要さを実感できます。
 元来要害の地形を活かした北東部には殆ど手をかける事なく、北西部には幾重にも段郭を配し、対戦的に弱い地続きの南面には二の郭・帯郭を配して、主郭南面も5m土塁と呼ばれる高い土塁▲冒頭写真で守りを固めています。

 明治41年(1908)地元青年会によって麓から道が敷かれ、大正初期には多くの桜の木が植えられ、製糸業最盛期にはずいぶんと賑やかだったようですが、今では花岡公園として整備はされているものの、桜の時期以外は訪れる人も少なく、住宅街の中にあってもひっそりとしています。昭和42年(1967)岡谷市の史跡に指定されました。

 また昨年(平成18年:2006)7月19日、数日前からの大雨により、花岡公園南側の土砂が崩落。岡谷市内で8人もの犠牲者が出てしまったことは記憶に新しいところです。

寿命稲荷社
主郭に寄添う石祠
城跡遠望

2007年2月27日

DATA

住  所: 長野県岡谷市湊1丁目
アクセス: 諏訪湖の西、釜口水門の西南にある山上が城跡。釜口橋より県道16号線を100m南下し右折、旧道に入り約100mで右折。車1台分の細く強烈な坂を登りきれば城跡。
別  名: 尾尻城,湖尻城
区  分: 山城
築 城 者 : 有賀氏?
築 城 年 : 鎌倉時代
主な城主: 花岡氏
遺  構: 曲輪、土塁、空堀
城  域: 南北約100m×東西約200m
保存状態: ★★ お勧め度:★★
訪  城: 2007年2月

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